★のほほん田舎暮らし!★

自作のパンやケーキのメモと日々の何気ない小さなことを書いてます。

母のこと&ハマっている物

今日は『魚上水』(うおこおりをいずる) 

暦の上では極寒の時季が過ぎようとしている頃でしょうか?

立春も過ぎ、早10日。

穏やかな日が続いてる。 

 

 

2月2日朝8時3分に母が旅立った。

自分のためにここにメモ。

 

昨年12月26日に救急入院。

入院中元旦に誕生日を迎えて93歳になったばかり。

救急で病院へ着いた時には、寝返りも出来ず腹部の激痛があった。

前々日の12月24日から一切食べずで寝付いた状態。

4日前の20日にはデイサービスを受けたばかりだった。

1年ほど前から、食べれない日が定期的にあった。

1日2日ほどでいつも復活していたので、今回も2日後ぐらいに病院へ行けばいいかな…と思っていた。

 

CT検査では詳しいことが分からず、造影剤で検査をすることになったが、腎機能が低下しているためそれも出来ず。

CTでは盲腸のあたりの画像が乱れているので、そのあたりに何かある・・・とのこと。

尿の出が悪くなっていたので、入院直後にカテーテル

 

母は日ごろから、延命治療を拒否していたため(医師にも何度も)、そのままの状態で点滴と抗生剤と痛み止めで様子を見ることに。

1週間ほど経ったころには、痛みも軽減され少し元気になった様子だった。

言葉も少しなら出る状態。

それまでずっと絶飲食状態だったが、再度の検査で口から液状のものを食べてみることになる。

ほんの数口入れただけで、翌日から嘔吐の連続。再度絶食になる。

そのままの状態で、徐々に弱っていったのだと思う。

その後も何度か検査があった。

 

入院40日で、力尽きてしまった。

毎日母の所に通ったが、亡くなる2日前から何となく様子が変わったように感じていた。

亡くなる前日には、医師から「昨日から尿がほとんど出なくなっている。今は血圧が安定しているが、乱れてきたら1日2日が言えない」との説明。

帰宅後、夫に伝える。

そして、息子(母の孫)二人にそのことを伝える。

翌日が日曜(2月2日)だったので、息子二人は急きょ帰省することに。

 

2月2日の朝6時半ごろ病院から電話。

夜中に黒い便が出たことと、呼吸が乱れているので来て欲しいと。

酸素吸入をしながら、肩で息をしていた。

呼びかけても反応はないが、看護師から「聞こえますから、声をかけてあげてください」と。

病院に着いて1時間後に息を引き取る。

 

2015年7月にペースメーカーの手術を緊急で受けたことがある。 

o-uiri.hatenablog.com

 

亡くなった時に開けるようメモをつけた箱は、ペースメーカーの後ごろから少しずつ準備をしていたらしい。

母の部屋の片隅に、その箱があることは知っていた。

しかし、病院で最期が急に来てしまったので、母自身が準備していた帰幽の際に着る下着や浴衣、足袋を着せることができなかった。

普段着ているもので良いと看護師から聞き、母手編みのカーデガンとブラウスにズボン姿で帰ってきた。

その後、その箱を開けてみるとそれぞれに宛てた封書入りの手紙。

 

私宛。私と夫宛。私と妹宛。妹宛。妹とその夫宛。孫夫婦(私の長男)宛。孫夫婦(私の次男)宛。

7通もの手紙も入っていた。自分が幸せだったことと感謝の言葉。

 

母の編んだ物をお棺にいれたり、差し上げたりしたが、まだまだ残っている。

遺品整理の時には写真に撮っておきたい。

 

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※令和2年2月2日死亡

  最終的診断 大腸がん

 お通夜 2月4日  告別式 2月5日

 

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 大豆だからヘルシー!!と思って手に取ったのが始まり。

小さな袋なので、一気に一袋(>_<)

 

病院通いとお葬式があったので、会う人会う人痩せたんじゃない?!と聞かれるけど、ただやつれただけ(-_-;)

食事時も、絶食状態の母のことを思うと、私だけ食べて申し訳ないような気がしたが、私がダウンしたら代わりに母を看る者がいない・・・と思いながら食べていた。

役所関係、相続関係、遺品整理、忌明け(納骨)の準備・・・

少しずつ手を付けていかなくてはいけない。

分からないことばかりで、右往左往。

10年前に父を送った時のことは殆ど忘れている。